(1)
2023年度(令和5年度)宅建試験が終わったので、読書三昧(ざんまい)の日々を送っている迷物講師です。
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とは言っても、何か新しい本を買ってくるわけじゃないです。
むかし買った本を読み直しているだけです。
(3)
きのうは、伊藤榮樹(しげき)さんの本を読み直しました。
知らない人も多いでしょうが、伊藤さんは40年以上も前のロッキード事件で、田中角榮元首相が逮捕された時の東京地検特捜部の検事です。
その後、検察の最高ポスト(検事総長)にまで昇りつめた人です。
(4)
伊藤榮樹さんが書いてたことで、この40年以上、私の頭から離れない言葉があります。
それは「国家あっての検察」というフレーズ。
事あるごとに「巨悪を眠らせるな!」と発言していた伊藤さんですが、最後の最後では、「国家権力が悪に目をつぶることがある」ということです。
その際、伊藤さんが使ったフレーズが「国家あっての検察」でした。
国のシステムが崩壊したら、検察もクソもないです。
検察だって国のシステムの一部を構成しているわけだし。
日本国があるからこそ、日本人という言葉もあると言えるわけだし…。
(5)
伊藤さんの「国家あっての検察」のフレーズは、その後、わが国の支配者によってアレンジされ、好んで使われるようになりました。
それが、このメッセージのタイトル「国家あっての国民」です。
「国家が崩壊したら国民の幸せもクソもない。だから税金が少し高くなったくらいで文句を言うな!」という使われ方が典型でした。
(6)
もっとも2020年代の今では、「国家あっての国民」は人気がないです。
逆の「国民あっての国家」という言葉のほうが人気です。
民主主義では国民が主人公です(国民主権主義)。
とすれば、「国民あっての国家」というフレーズのほうに人気があるのは当然かもしれません。
(7)
「国民あっての国家」というフレーズは、憲法を少しかじったことがある私からすれば、一応理にかなっています。確かに、民主主義では国民が主人公だからです(国民主権主義)。
でも私には、「民主主義って万能なの?」という根本的な疑問があります。
「人民の、人民による、人民のための」デモクラシーって、その大もとにいる人民がバカだったら、絵空事に過ぎないじゃないか、という疑問です。
国民が政治家を選ぶ。
そして選ばれた政治家が悪を犯す。
となった場合に、そういう悪を犯す政治家を選んだ国民がバカ(愚衆)だったから、とも言えます。
こういう考えかたを「愚衆(ぐしゅう)政治」といい、民主主義を冷やかすときに良く使われます。
愚衆政治だからと言って、毎日の生活に追われている国民の多くを「愚衆から開放する」のは不可能でしょうから、「民主主義=愚衆政治」との冷やかしに、反論するのも難しいです。
2008年07月25日(金)記
2023年11月08日(水)追記
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