この記事は、「タクシー・ドライバー〝日の出〟の観察日誌」その五(生嶋福之輔著)、というアメブロ記事から転載したものです。
元記事のURLは
https://ameblo.jp/6063762/entry-12619397918.html
で、元記事の真ん中あたりに、〝笠原聖一郎様〟のこと、という文章があります。
わたくし迷物講師は、笠原とは小学校時代から50年以上の親友だったので、笠原聖一郎(かさはら・せいいちろう)君のこと、というタイトルに変えました。
〝笠原聖一郎様〟のこと
タクシーでは、夜の銀座は、藤澤雅晴君の友達のその筋(極道)の方、笠原聖一郎様の伝手(つて)も多く、当方の車に優良の長距離客をお回し下さり、お乗せしたその筋の御方もいらっしゃり、随分と助かった経験が御座いました。
本当に感謝いたします。笠原聖一郎様も数年前に此の世を去り、余り銀座ではそのような甘えも許されませんが、私〝日の出〟も、どうにか優良客を引き寄せる術をも心得つつあります。
笠原様と言えば、その筋の方ならどなたもご存知な方のようでして、全国の広域組織に精通された方だったようです。
その詳しいことは〝友だち〟であった藤澤雅晴君からの受け売りなので、知ったかぶりで記すことになります。
有名な話は、内部抗争で凶弾に倒れた神戸なのか関西の宅見勝組長という方の舎弟と為っていた時に、「極道の妻」と題する著書を出された家田荘子なるジャーナリストの女性にヒントを直々に出された、謂わば〝ゴーストライター〟に準ずる人だった訳です。
私〝日の出〟は、極最近まで〝極道の妻〟ご本人が、実は最近亡くなった歌手の西城秀樹様の実の姉だった事を知りませんでした。情けないことに、藤澤君も教えてくれず今まで知りませんでした。
笠原様は、東京・信濃町暗闇坂の重鎮であり、近くの芸能プロダクションの方々や、事件のあったビルのオーナーとかと懇意でもあり、興業の世界には精通されて居たようです。
一番度肝を抜かれたことがありました。
笠原様の誕生日祝いに何度か藤澤君に呼び出され、ある時、当時信濃町にあった飲食店(迷物講師の補足:てんまん=天万という天婦羅屋)の二階にて氣持ち良く飲んで居ましたら、急に騒がしく声高で荒くれ物の男衆が十人近くドヤドヤと入って来られました。
何だろうと思うや否や、荒げた関西弁で「ぶっ放したろうか?」とか何とか仰って、機先を制するかのように喚き散らしたのであります。手や足から拳銃もチラつき、私〝日の出〟も、『元桜田門の夜明刑事』ではなかったので、こんなドギマギしたことは生まれて初めてでした。
どうにか逃げ出したい心境に陥ったのですが、そこは、店主の笠原様が場を上手に取り繕(つくろ)い収められました。
私も簡単に出る訳にも行かず、一曲歌でも歌って帰ろうと、「旅姿三人衆」なるデイックミネさんの歌をいい加減に歌って和ませたつもりでした。結構酔っぱらっていましたので、何とか切り抜けて藤澤君とそそくさと帰ったように記憶しております。
さて、笠原様は、当然のことながら、政治関係の情報にも精通されており、非常に生々しい話を聞かせて貰いました。
ここでご開帳するには、未だに御存命の方も多々居られますので、これは止めておきましょう。
そんな笠原様も、最期は酒浸りで一人寂しく息を引き取られたようで、藤澤君に呼ばれて、上池袋の遺体安置所で、暫く身寄りの無いご遺体に私〝日の出〟は般若心経を唱えて合掌し、お別れをしたのでした。
後日その筋の事に詳しい栗原茂先生に伺ったことには、「この世界、ヤクザもんの美学なんだなあ!?」と言うことでした。
令和 4年12月 3日(土)記
令和 4年12月17日(土)追記